なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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デカルトの『省察』を読んでモヤモヤしたこと

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年末年始にかけて、とある読書会でデカルトの『省察』を読んでいました。読書会とはいうものの、大学の授業のような形式で講師の先生の講義を聞き、課題を提出したり質問をしたりという仕組みになっていて、充実した読書体験を得ることができました。毎週の課題は、「第三省察と第五省察では神の存在証明がどう違うのか」などのようにテキストに沿って考えるものでしたが、最終回は個人的な感想を自由に(個人の体験に寄せたエッセイ可)という設定だったので(字数制限800字)、投稿した内容をここで紹介します。

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省察』が6つの省察で構成されているのは、創世記において神が6日間かけて世界を作ったからであると言う。デカルトは、創世記の造りに寄せた構成にしようという誘惑に駆られなかったのだろうか。私が『省察』を読み終わって一番モヤモヤしたのは、その構成(章立て)だった。クライマックスが第三省察から第五省察に向かって収束する神の存在証明であるならば、全てを疑うという入り口から、蜜蝋の喩えや幾何学の例を散りばめながら、らせん状の階段を辿るように神の存在証明という頂きに向かって上っていく方が、読者はドキドキできたのではと思ってしまう(『省察』は読者に文字通り省察を求めるものであり、神の存在証明のためだけに著されたものではないと理解してはいるが)。
「語りえぬものについては沈黙せねばならない」。素人が集まって2年がかりでウィトゲンシュタインの『論考』を読んでいた。神の領域は「語り得ぬ」もので、梯子は投げ捨てるものだと思いながら。『省察』において神は語り得るものであり、『省察』には投げ捨てるための梯子はない。神の存在証明は足場であり、携えていくものであり、テストボードでもあるのだろう。錬金術が多くの科学を生んだように、神の存在証明は多くの哲学を生んだのかもしれない。
だとしても、先述したような頂きを終点とし、上った後でひっそりと下に向かう梯子をかけて、「私はある、私は存在する」と呟いて余韻を残して終わる、そういう終わり方を妄想してしまう。或いは、答弁も含めて再構成された『省察』を読んでみたいと思う。
そのような妄想とは別に、デカルトが近代哲学の父と言われる理由と、『省察』という書物の大きさが何となく実感できた気がする。
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これに対し講師の先生から、この順序の必然性がデカルトにとっての哲学とは何かを考える鍵なのではというようなメッセージをいただきました。その他のメッセージや、他の参加者のちゃんとした感想をここで紹介することができなくて残念です。『省察』の章立てや神の存在証明について詳述すると長くなるので、興味のある方は是非テキストを手に取ってみてください。

通常、読書会では事前の「読む」という作業と、その場での「聞く」「話す」という作業が中心になりますが、今回は要約その他諸々「書く」という作業を通してより理解が深まった気がします。一方で、何となく集まって何となく話して、何かを持ち帰る読書会も、それはそれで楽しい時間です。何より、一人では途中で投げ出してしまう本も、みんなで読めば怖くない、です。

2年以上かけて続けてきた『論考』の読書会も無事最後まで辿り着き、番外編も含めて三月で大団円?を迎える予定です。四月からは鈴木大拙の『無心ということ』の読書会が始まります。主催者に代わって、皆様のご参加をお待ちしています。

(福) 埋め草担当