不幸には2種類の不幸が存在する。相対的不幸と絶対的不幸である。
まず相対的不幸から見ていこう。自分は月給50万の会社員だとする。しかし先輩社員、同僚、後輩をみると皆、月に200万は稼いでいる。同じ仕事をしているのに、何故か自分だけ彼らの1/4の給料に甘んじている。「何故だ。不条理だ。私は不幸だ」
月の給料が50万も貰えれば普通は悪くはない。しかし皆が圧倒的に自分よりも多く貰っているらしい、と分かれば不幸を感じずにはいられない。これが相対的不幸の一例だ。
ではもう一方の絶対的不幸となるのは、どんなケースであろうか。相当な苦痛を感じながら死んでゆく、という場合がまず浮かんでくる。
核兵器が爆発した街において、激烈な肉体的苦痛を感じながら死へと不可逆的過程を辿ってゆく。周りも自分と同じように死にゆく人々で溢れている。他人も、皆そうやって死にゆくから自分だけが苦しんでいるのではない。そうは分かっていても自分の苦痛は耐えがたい………を既に通り越した苦痛である。辺りを見回すと昔の絵師が描いたような、文字通りの地獄絵図。世界の終わりだ。
「いや、それも相対的不幸であって絶対的不幸ではない」と言うのならば、死にゆく自分は一体何と比べて不幸がっているというのだろうか。月給50万という状況は変わらず(自分が発狂しそうなほどの苦痛を感じながら死にゆくという状況は変わらず)に、どうしたら周りの人の給料を20万にする(自分以外の人と比べれば私の状況は不幸とは呼べない)などという事が可能なのだろうか。
「ひとは苦痛なく人生を終えてゆくのが普通だ、という世界観を持っているから駄目なんだ。最期にはひとはこの上ない苦痛を感じながら死にゆくのが当たり前だ、という認識を常識とする世界では、核爆発で死にゆく人の不幸度合いも『絶対的不幸』ではありえない」というのはどうだろうか。
いや、我々の世界ではそんな常識など持っていないのだ。この世界の常識では、現に「最期は地獄ではない」のを普通として生き死んでゆくのだ。核爆発で死にゆくときのみ改宗する訳にはいかない。この我々の世界では、まさか地獄が本当にあるなどと思っている人はごく少数だ。そして必ず人は生まれた以上地獄へ行くのだと覚悟をしている人は皆無と言ってもいい。
「だからあなたの世界の常識(地獄は実在しない)において核爆発で死ぬことが不幸というのだから、ひとは必ず最期は地獄にゆくというのを常識としている世界から見れば、やはりそれは相対的不幸に過ぎない」のだろうか。
こうなると思考実験というよりも単なる言葉遊びをしているような気がしてきた。
言葉遊びの次元では、「人と比べれば最下位のひとが絶対不幸で、それ以外の人は相対不幸になる」とか言えるけど。哲学もどきの言葉遊び、へ理屈にどんな意味があるのか。
難病の人の人生を、他人が絶対不幸か相対不幸かと論じることは失礼ではないのか。辛い人生を歩まざるを得なかった人達の不幸を肴にして「絶対か相対」を論じることのできる資格は誰にあるのだろう。
ということでこの論考は終わる。
(i3)