なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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分離・分割と命名 そうではない動き

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 「分離・分割と命名」。これは科学という名の思考法の基礎だ。森羅万象について考えるとき、人間は対象を分類、分析、命名する、という方法で推し進めてきた。

 それが成功を収め、ヒトという種族が他の追随を許さない程の繁栄を謳歌してきたわけだ。

 

 その「科学」という営みを、何故いまになって見直さなければならないのだろうか。「科学」という考え方の成功の裏で、なにか弊害が生じたに違いない。それは一体何だろうか。

 

 「科学」は文字通り『分けて考える』ものだ。数学・統計学・物理学・天文学・地球惑星科学・化学・生物学・政治学・経済学・社会学・教育学・哲学・宗教学・言語学・考古学・歴史学・文学・工学・医学・建築学……etc.

 これら知の営みは言わば縦割り行政で、その為にいろいろと弊害も生じてきた。たとえば工学からみた最も効率の良い工場群は、廃棄物を垂れ流し、医学的見地からするとそれは到底看過できないにもかかわらず、経済学はその状況を首肯し、教育学は後手後手に対処する。

 

 このような状況を変えようと、学問の違いの壁を乗り越え、越境してゆく「あたらしい科学」が望まれたのは言うに及ばない。そして現在その期待に応える動きがでてきている。

 ただそれが『そうではない動き』なのかは疑問の残るところではあるのだが。

 

 そこで分類・分離・命名にあらがう動きとして、ある詩のことが思い当たる。新川和江の代表作「わたしを束ねないで」である。

わたしを束ねないで

あらせいとうの花のように

白い葱のように

束ねないでください わたしは稲穂

秋 大地が胸を焦がす

見渡すかぎりの金色の稲穂

新川和江『わたしを束ねないで』一部引用)

 このような文学の発露が『そうではない動き』の考え方であろう。芸術は思考でなく直観だ、と考える向きもあるかと思う。しかし芸術が大脳新皮質の発達した人類に特徴づけられる行為であり、他の動物には観られないものであることを鑑み、やはり思考のひとつの雛型だと捉えていいと思う。

 

 そうすると類似の「思考」として『宗教』というものも思いつく。文学・絵画・音楽・舞踊・演劇・映画・彫刻・陶芸・書道・華道・茶道・……etc.で構成される『芸術』と神をいただく『宗教』、これらが分類、分割、分離、命名にあらがうもう一つの動きとして考えられるのではないか。

 

 これら芸術・宗教を一つの極、そして科学をもうひとつの極としてその融合がこれからの『そうではない動き』となりあたらしい時代を担う、そんな気がする。

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