先日の哲カフェ、『学習とは』がテーマだった。先に言いわけをするのが許されれば、個人的にはあまり感慨深いものとはならなかった。
自分の学歴を「問題なし」と考えるひとは「学習」を肯定的なものとして捉える傾向はあったが、(自分も含めて)多くの自分の学歴に不満があると思しきメンバーは「学習」を否定的な側面から解釈しがちで、そこに思いがけない視点はあまり無かったように見受けられたからだ。
ということで、本稿もあまり書くことは無い。なのに、何故書くのか。それはおいおいわかると思う。
人間の場合、「学習すること自体」に喜びを感ずる、ということがある。世の中のしくみ、成り立ち、ルールが何故そうなっているのかを知りたいと思い、その何故がわかると快感が走る。「これこれは、〇〇だ。なぜなら△△だからだ」。或いは「これこれは△△だ。よって○○だ」。この構文に心惹かれる。「なぜなら」と「よって」、この接続詞で結ばれる前後の関係に心ときめくのだろう(言い過ぎだ)。
具体的に、この経験によって無味乾燥だった歴史や物理が面白くなる、ということもあるだろう。
重要なのは「学習」の前後でなにかが変わることだ。何が変わるか。まずは知識の量である。ふつうの人間は、「学習」のあとに知識の総量が増加する。
その知識を使って、行動の指針とする。これにより好ましいものは何かを判断し手に入れ、危険からは遠ざかる。それが効率的に可能となる。省エネ的な生き方であろう。
「学習」は“座学”と揶揄されることもあろうが、「学習」の際に必須となる書物の蓄積の結果として、我々は莫大な恩恵を被っているのだ。
哲カフェのチャットに『人というものは知識を共有したがる動物なのかも』と書き込みをした方がいらしたが、それは色んな地域のさまざまな時代の人間との知識の共有ということだろう。ここでのポイントは、自分も知識を享受するだけではなく、新たなそれを付け加えることができるということだ。SNSを利用している人などはすぐに実感するのではなかろうか。
過去において僕が「学習」を通じて会得した一番の成果は、〈自分で本を選んで読んでみる〉という姿勢だった。その結果、自分の存在を肯定できるものとなったかどうかは、ここには書かないでおこう。
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