なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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【今月のお題】夏が来ると思い出す --慈善と偽善--

この季節になると大手スーパーの店頭に黄色い箱が並びます。某キー局のチャリティ番組の募金箱です。

遥か昔、まだ小さかった息子がテレビを見て募金ボランティアをやりたいと言い出し、一日一緒に募金会場に立っていたことがあります。当日は、小さい子が瓶一杯に詰まった小銭を持ってきてくれたり、凝った形の手作り貯金箱を持ってくる人がいたり、ゲストで来ていた芸人さんが終始低姿勢を崩さない人だったり、色々と興味深い光景を目にすることができました。息子はその体験そのものを忘れてしまったかもしれないし、私も今そのような番組を観ることはありませんが。

子供の一生懸命な姿を見て偽善と言う人は少ないでしょうが、大人はどういう気持ちで募金をしているのでしょう。少しでも誰かの役に立ちたいという気持ち? ちょっといい事をしたという自己満足? 手元に小銭があったから何となく?
そして、人は何をもって偽善と思うのでしょう? 定義的には慈善は利他、偽善は利己かもしれませんが、その線引きは困難です。

漱石の『三四郎』で、主人公の三四郎に広田先生が次のように語りかけます。

我々の書生をしているころには、する事なす事一として他を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。

人は「偽善」と「露悪」を行ったり来たりしているのでしょうか。この「偽善」と「露悪」は、「偽りの善」と「悪を露にする」ではなく、二字が癒着した一つの概念のように見えて来ます。

鋼の錬金術師』で、ある登場人物が次のように言い切ります。
「やらない善より、やる偽善」
日常的な行動指針としてはこのくらいでいいのかもしれません。

(福)