なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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何もしなくていい生活

 哲カフェのタイトルは『何もしない生活』だったので、この論考のタイトルはそれとは少し違う。「どこが違うというのか?」と言う人はよくタイトルを見て欲しい。

 繰り返しになるが『何もしなくていい生活』がここでの試論タイトルとなる。

 親からの遺産が莫大だとかの理由により、働くことの必要性がない人もいるだろう。そういうケースを念頭に置いて、この論考を進めるつもりだった。

 人は自分の生活が保障されていれば、敢えて働くことはしないものだろうか。一概には言えないが、働かないだろう。それは、金を稼ぐということが、ある意味この世界での懲役に当たるからであろうか。学校を卒業して初めて就職したとき、「お金を稼ぐということが、こんなにも辛いものなのか」と感慨を持った方もおられよう。

 それとは別に、敢えて労働に時間を費やさず、自分のしたいことだけをする、と言う理由で何もしない方もいらっしゃるだろう。羨ましい。現在の刑事罰が自由刑であることからも、自分の好きな事ができない、というのは辛く苦しいことなのがわかる。

 もちろん自分のしたい仕事に就いて、自己実現の一環として働いている、という面が労働にはある。自分のしたいこと、好きな事が日々の仕事だ、というこれまた妬ましい人間もいる。逆に自分の好きな事をする時間が持てず、したくもない労働に日々追われる、と言う方々もまた多いのではないだろうか。そうなるとホンモノの懲役との違いは俗世間で生きているという幻想のような気分だけかもしれない(そんなことも無いだろうが)。この気分を下支えしてくれるのが価値観。どんな価値観かと言うと、何事も自分で選び取り行う、ということが、人間として普遍の欲求だというもの。

 「明日はいつもより一時間だけ遅く起きて、冷蔵庫の残り物を調理して食べることにしよう、休日なのだから」という自由の行使は、決して牢獄では味わえない喜びである、と確信している。そしてその自由を行使するための下条件=お金を貯めること、の為に自分の自由を制限して労働に勤しみ、その結果、自由時間がない(或いは少なすぎる)と不平を漏らすことになる。まさに自由の牢獄。

 『自由の牢獄』というミヒャエル・エンデの短編を読んだことがある。主人公は天国か煉獄かわからないようなところで迷ってしまう。壁に100個のドアがあり、それぞれが一体どこに通じているかはわからない。しかし一つのドアを開けてしまうと残りのドアにはロックがかかって決して二度と開けることはできなくなる。さあどうする、という訳だ。加えて時間と共に100個あったドアが99個に、そしてまた日月と共に99個のドアが98個に、と減ってゆく。そうして長い年月が過ぎ主人公は盲目の老人となり、とうとうドアは1個になっていた。主人公は思う「このドアの向こうに行くべきか、それとも今まで通りここに留まるか?」

 ざっとこんな感じで終わってゆく。主人公はこの自由の牢獄で、果たして自由だったのか。現実の世界でも、人が何かを選択してゆくというのはこの自由の牢獄状態ではないか。 

 今は昔ほどではなくなったものの、ひとつの職を選びその道を進むと、他の人生の道は閉ざされる。このドアを「配偶者を決めること」の寓意と読み取ることもできよう。だからよく考えてから行動しないと取り返しがつかない。慎重にならざるを得ない。

 しかし考える材料などは殆どない。何を選ぶかは運次第、そして年齢と共に選べるドアは減ってゆく。失敗をしたくなければ、何も選ばなければいい。だが、そうした失敗のない生活の蓄積は、考えるまでもなく人生の大失敗だろう。

 そうしてドアの数が1個だけになっても、そのドアを開けるべきか躊躇する。何故なら今まで真の選択をしてきたことがないのだから。

 そんな人生が嫌だったなら、兎に角自分で選択の連続を切り開いてゆかねばならい。たとえそれがどこにたどり着くか分からなくとも。というのが西欧の(小説は中東を舞台としていたが)スタンダードなのだろう。

 翻って自分の人生。失敗の連続とは言え、選択を自分自身でしてきたことを後悔はしても、絶望と滑稽な自由の牢獄状態ではなかった……と言い切れるのかどうか。

 《人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、の連続にほかならない》byショウペンハウエル

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