なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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平等と公平

 先日の哲カフェ、タイトルは平等と公平。「平等と公平の違いはどこにあるのか?」から始められた。正直どこに違いがあるのか、よく分からなかった。それでも分からないなりに考えるところはあった。
 「機会は公平を期するが、結果は平等となるのを期待はできない」とは言うが、「機会は平等を期するが、結果は公平となるのを期待はできない」とは言わない。試験を受ける機会はすべての者に広く開かれているが、すべての者が合格をするわけではない、というケースの意味である。公平は試験を採点する側に属する姿勢であり、平等は試験を受ける側の実力に関する結果になるだからだ。
 換言すると平等は被評価者、公平は評価者に含まれる事柄になる。或いは公平は、公の者が平等に接する、つまり為政者の立場を表すという意味であろうか。
 その平等思想が何ゆえに生まれたのか、その背景を探ってみよう。
ある人間は生まれつき優秀な遺伝子をもって生まれ、別な人間は厳しい条件の遺伝子をもって生まれる。そしてその後は、往々にして前者は成功を収め、後者は苦難の人生を歩む。
 それは、本人たちのせいなのであろうか。本人たちにその報いを、責任を帰すべきものなのか。いや、そうではない。人間がどんな遺伝子を得て誕生するかは、当人たちには全くの不可抗力になる。つまり、運次第だという事だ。
 ただ、親が巨額の費用をかけて、ゲノム編集などの技術を用いて優秀な遺伝子を持った人間を産んだとなると、本人には当然その責任はなくとも、運に左右されるはずの誕生に恣意的に介入したものとして非難されるかもしれない。運を呪うべきもの、克服すべきものと考える一方、甘んじて受け入れなければならない、そうでなくてはアンフェアであるとのアンビバレントな思いを私たちは持っている。
 だが、ここでは通常のパターンだけを考える。私たちは、運だけで困難な生を送らねばならない、何も悪くない人間に対して、何らかの特権を付与せねば可哀そうだ、不正義だとの感情を抱く。それが、平等思想の始まりだろう。
 この不運が文字通り〈偶然〉という意味において使われる場合、憐憫の情をもよおさせずにはいられない。人間は偶然に操られる人形であってはならない、という訳だ。
しかし、一見運に見えたものが実は運命、つまり〈必然〉だとしたらどうだろう。世の中は物質に物理法則が働くだけであり、私たち人間も物理法則の操り人形に過ぎないとしたら。そこに、一切不可避、誰の責任でも無いものにすべてが帰せられると分かった時、やはり人間は不運な星の下に生まれた者に対して痛ましいとの思いを持たざるを得ないのではあるまいか。
 結局、運が〈偶然〉にせよ〈必然〉にせよ、いずれの場合も人間は平等思想を具えるのであろう。——減数分裂の神秘。

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