なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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つかのまに夢を見る

 いまから約5億4千万年前、いきものの世界で大事件が起きた。眼の誕生である。「何がそんなに大変なんだ?」と思う人は、自分以外の人に目隠しをしてもらい鬼ごっこでもドッジボールでもやってみたらいい。あなたの一人勝ちとなるのは想像に難くない。
 仲間のなかでは自分一人が支配者となり、かつて敵だった者はもはや敵ではない。それほど眼の威力は絶大だった。自分以外のものが同様に眼を獲得するまでは。
 人は五感からの情報のうち8割を眼に負うという。それほど圧倒的な力を持つ視覚でありながら、なぜ私たちは眼を使って会話をしないのだろうか。比喩的な意味でなく文字通り視覚を用いて会話が可能なら、聴覚の7~8倍もの情報量で意思疎通ができるのではないか。
 その場合文字を使用しなければコミュニケーションできないとすると、なるほど読み取る分には問題無しだが、道具無しで次から次へと文字を繰り出す能力は残念ながら人間には備わっていないようだ。文字を読み取るには眼で充分だが、文字を作り出す器官としてはコンピュータを携えでもしない限りありそうにない。
 それでも視覚の情報量を利用した会話はできないものか。文字を使わない会話、図話のようなものは考えられないか。何故そのように進化してこなかったのだろう。

 視覚も聴覚も波動・波が伝わっていく自然現象を利用した器官の能力によるものだ。違いはその波の性質に起因する。視覚は光という波でもあり粒子でもあるものを使い、聴覚は音という空気の(空気でなくとも媒質であればいいが)疎密波を利用したものだ。
 音は回折、つまり障害物があっても回り込んで伝わるので、耳を発信源に向けていなくても聞こえてくる。一方光はほぼ直線にしか進まないので、常に発信源に眼を向ける必要がある。
 古代、人間も生きてゆくのに最も重要なこと、敵から逃げる、敵とたたかう、獲物を捕らえるということに注力していたはずだ。不意に敵が現れたことを仲間に知らせたり、敵・獲物に仲間で協力して向かったりするには、音を利用したほうが良いのは言うまでもない。
 よって進化の方向としても聴力を意思の伝達に使うことをまず最初に選んだのも頷ける。肺からの呼気をことばに変えて空気を用いて仲間に伝える、ほんとうに優れた進化であったと思う。

 夢を見るとは言うが、夢を聞くとは言わない。夢の場面を思い出すことはできても、視覚によるもので聴覚にその記憶が残ってるわけではない。夢はサイレント映画のようだ。やはり情報量は視覚を司る脳の部分が発達していることを証明しているのではないだろうか。
 聴覚と視覚とではどちらが基本的に重要なのだろう。何故視覚は情報量ではそんなに優位なのだろう。眼は閉じれば見えなくなるが、耳は閉じることはできない。

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