なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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「思いやり」と「お為ごかし」

 「思いやり」とは何だろう。「地球にやさしい」という言葉が人口に膾炙して久しい。これは私たちが地球に思いやりを持っているという事だろうか。いや地球自体には感情がないから、私たちは地球の思いを察することは出来ない。どんなに地球生態系に利する行為を人類が行ったとしても、それは思いやりとは呼べない。第一地球に利する行為と見せかけて、それはただ人間たちのための行為。つまりお為ごかしだ。

 

 では戦禍に苦しんでいる人たちに思いを馳せる。これは思いやりだろうか。寄付などを実行すれば別だが、ただ戦争で被害を被る民衆の気持ちを推し量るだけでは思いやりとは呼ばない。

 

 (思いを持つ者)が(感情を持つ者)の(気持ちを推し量って)(彼らに利する行為をする)こと、これが思いやりなのだろう。

 

 だから例えばAIが戦地の民衆の感情というものを推測計算して、妥当な金額を送金することは、思いやりとは言い難いだろう。日本に住む一般のロシア人を非難し、自粛警察ばりの倒錯した行為にでる邦人も、思いやりを持つ者とは言えない。

 

 政治家が不祥事を起こすたび、国民の皆様にはまことに遺憾である、と頭を下げるだけなのも当然思いやりとは呼べない。お為ごかしでさえある。

 

 野生のボノボは、傷を負った仲間に昆虫をかみつぶして口で擦り付けて手当てをすることがあるという。これは思いやりなのだろう。

 

 しかしこの思いやりのあるボノボの心中を察して別のボノボが『グッジョブ!』と言わんばかりの行為に出ることは無いのではないのか。

 

 人間はその点べつである。AがBを思いやった行動にでる。それをCが見てAに『いいぞ!』という行為に出る。ヒトにはそういう洞察力がある。それをDが見てCに思いやりの言葉をかける『良い行為をしている人(A)を励ましているお前(C)もまたいいぞ!』と。それをEが見てDに…………∞と論理的にはいつまでも続けることが可能だ。

 

 これは人間の持つ、相手のことを思いやるひとの心を、別の人が思いやることができる、という高度な洞察力がなせる業である。

 

 けれどもこれは「それをDが見てCに思いやりの言葉をかける『良い行為をしている人(A)を励ましているお前(C)もまたいいぞ!』と。それをEが見てDに…………∞」という文が意味を持つ、つまりこの構文が可能だからでもある。この構文はいつまでも続けることが論理的に可能であり、これは日本語でなくとも世界中のほぼあらゆる言語で可能なのである。

 

 ということは世界中のヒトは、動物にはない高度な洞察力をもとにした思いやり、を持っている可能性がある、と結論付けていいのではないか。少なくとも原理的には、であるが。ヒトの言語を話す者は、それに相応しい内実を伴っている筈である、と。

 

 ふと思ったのだが野生のサルは、思いやりと見せかけて自分の利を考えている「お為ごかし」をすることがあるのだろうか。「お為ごかし」は高度な行いなのだろうか。

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