最近気がついたのですが、キャベツの炒め物は混ぜなくても火が通る。
もちろん火の通りにムラが出て、下の方は焦げる。個人的には火の通りや味付けにムラがある方が食べ飽きないので都合もよい、このあたりは好みで分かれるのでしょう。一応、中華鍋を振っても掃除が大変にならない程度のことはできるが、その労力はなんだったのだろうかと考えてしまう。
手をかけないことは意外と難しい、なにかしないと不安になるので手を出してしまう。それでなんとかなれば次からも手を出すし、失敗すれば次こそはと手をかけてしまう。キャベツとの関係で考えると、キャベツを信じていないから手をかけてしまうとも考えられる。その方が良い結果につながるならばよいのだが、今回のキャベツ炒めの場合は無駄な労力を費やして欲しい物から遠ざかってしまっていた。おそらくかなりの労力と時間、素材を追加しなければ、放置して得られる結果を超えられない気がしている。
本当は必要なく、無駄なのではないか。
見て見ぬ振りをしていることが多々ある。
では無駄なことを削っていく行為は、どこまで削ればよいのだろう?
削ることでよくなることもあれば、削ることが無駄な行為になることもあるのだろう。
振り返れば無駄の集大成のような人生がそこにある、そう考えると無駄こそわたしの構成要素ともいえる。
棚ぼたの成功もあったが、無駄を積み重ねたから手が届いたこともある。
こんな無駄なことを書き連ねていることも嫌いではない。
では怠惰に無為の時間を過ごす自分を信じられるのか?
それはそれでよいのではないか、開き直るのもありなのかと
休憩がてら考えてみる。
(からす)