『どうせ最後は死んじゃうのに。どうして人間は生きなっきゃいけないの?』
こんな疑問を子供から浴びせられたり、あるいは自身で考えたことがあるだろうか?
僕は長いことこんな問いは意味のないものだと思ってきた。
だけど今や個人的な理由から、時折頭を掠める問いとなった。
自分が読んだ本の内容も、考えたことも、親しい人との記憶もいずれは消える。
その喪失感。何も残らない。
いま窓の外では蝉がしきりに鳴いている。あと百年後、蝉は何事も無かったかのように同じ行動をしていることだろう。蝉自体は一週間もすると、個体が代わるのは分かっている。けれども、僕の存在しない世界で相変わらず蝉は力強く鳴いていることだろう。
『たとえばレンタカーを借りるとするだろ。どうせその車は返さなっきゃいけないのだからって、乗ることを止めるかな?』
こんな答えを考えてみて、自分を納得させようとするのだが、心は納得してくれない。
『終わりがあるから意味の無いことである、というのかな?
たとえばスケールが大きくなるが宇宙もこのまま広がってゆき、何万×何千億年後には物質の構成基本要素である陽子も崩壊し、あらゆる生物・文明の記録・記憶も塵と消える筈だと考えている科学者もいる。
この終末には何物も抗えない。
世界ができて歴史がはじまり、人間が小説を書いたり映画を撮ったりオーケストラを鳴らしたりフィンセント・ファン・ゴッホの苦悩の軌跡があったり、それらを鑑賞したり、愛する人と時間を共有したり、子供にご飯やお菓子を作ってあげたり、宇宙の神秘を解き明かそうと大脳辺縁系をフル回転させたり、そういったことにも全く意味は無いのかな?』
こんな風にも考えてみるのだが、僕個人が露と消えることに関して僕個人に意味があったのかと考えを巡らせてみると、やっぱり肯定は難しい。
そんな時には好きな音楽でも聴きながら、『あの瞬間には確かに意味があるんじゃないのかな』という瞬間を思い出してみる。
僕個人の人生に、終わりが来てしまうこの人生に、意味があるかどうかは分からない。
だけど『あの瞬間』にはいまも何かを感じ、その場を共有できたことは僕の唯一のプライドなのかも知れないと、百年後蝉がうるさいほど鳴いているであろうこの窓の外のことも思い浮かべながら考えてみるのだった。
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